祇園祭 最新NEWS2016 京都女郎花
祇園祭を締めくくる「夏越祭(なごしさい)」が31日、京都市東山区の八坂神社境内の疫神社で行われた。厳しい日差しの下、大勢の参拝者が茅(ち)の輪をくぐって厄を払い、無病息災を祈った。1カ月間にわたる祇園祭はこの神事で幕を閉じた。 夏越祭は、八坂神社の祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)が旅の途中で受けた蘇民将来(そみんしょうらい)によるもてなしの返礼に、その子孫の疫病退散を約束したという伝承にちなむ。参拝者は「蘇民将来子孫也」と書いた護符を授かる。 午前10時に始まった神事は蝉(せみ)時雨の中で神職が祝詞を読み上げ、参列した祇園祭の神輿(しんよ)会や氏子組織、山鉾関係者ら約400人が祭りが無事終わったことに感謝した。 八坂神社の森壽雄(ひさお)宮司は「今年も皆さんの支援や協力で立派な祭りができた。神様と人々、人と人を結ぶ祇園祭が世に平安を与え、京の都も平安でありますように」と祈願した。その後、一般参拝者も含めて大勢が茅の輪をくぐり抜け、カヤを持ち帰った。 。
京都・祇園祭は24日、2014年に復活した後祭の「山鉾巡行」が行われ、豪華な装飾品に彩られた山鉾10基が都大路を進行した。行列の最後尾となる大船鉾の船首には、幕末に焼失し、今年復元された竜頭(高さ約2メートル)が飾られた。 祭列は前祭と逆ルートをたどって、四条烏丸を目指した。大船鉾は幕末の「蛤御門の変」で焼失し、150年ぶりに、14年から巡行に加わっていた。竜頭は設計図がなく、専門家の調査を基に今年完成させた。 後祭は1965年まで行われていたが、交通渋滞の緩和などを目的に前祭と一本化。14年に伝統的なしきたりを残すために復活した。
祇園祭の後祭(あとまつり)は23日、宵山を迎えた。京都市中心部に立つ10基の山や鉾の付近では、多くの見物客が訪れ、祭りの夜を楽しんだ。 鈴鹿山(中京区烏丸通姉小路下ル)では、厄よけちまきを売る少女たちが浴衣姿で「常は出ません。今晩限り」と呼び声を上げた。三つの山が南北に並ぶ室町通では、見物客が祭りの雰囲気と別れを惜しむかのように、駒形提灯に照らし出された山を見て歩いた。京都府警によると、午後10時現在の人出は約2万人で、昨年より約3千人多かった。 24日の山鉾巡行は午前9時半に中京区御池通烏丸を出発する。同日夕には還幸祭が営まれ、3基の神輿(みこし)が四条御旅所(下京区四条通寺町東入ル)から八坂神社(東山区)に戻る。
祇園祭の後祭(あとまつり)は22日に宵々山を迎えた。京都市中心部の山鉾町では、「コンチキチン」の祇園囃子(ばやし)や駒形提灯の明かりに誘われた見物客たちが、しっとりとした雰囲気を楽しんだ。 後祭の10の山鉾のうち、中京区蛸薬師通烏丸西入ルの橋弁慶山では、会所の2階によろい姿の弁慶と牛若丸の人形が飾られている。夜にはライトに照らされ、見物客たちが、歴史上の両雄の人形を見上げていった。 後祭は、人出が少なく、露店の出店のない「静かな祭り」と言われ、見物客はゆっくりと山鉾町を巡った。鯉山では、約400年前にベルギーで作られた懸装品(けそうひん)や、木彫りの鯉に見入ったり、役行者(えんのぎょうじゃ)山では、23日午後に焚き上げる護摩木に願い事を書いたりしていた。朱印を授与するコーナーには行列ができた。 同日は1万人(午後10時、京都府警調べ)が楽しんだ。
祇園祭の南観音山(京都市中京区新町通錦小路上ル)の会所が新築され、21日に関係者に披露された。旧会所に比べて床面積は約2.5倍になった。今年の後祭から使用する。 170平方メートル。老朽化などを理由に建て替えを決めた。新会所は鉄筋3階、延べ約410平方メートル。3階の新町通側の外壁には、町名の「百足屋町」からとった「百」の文字を入れた。 会所の奥は袋小路となっていて、木造2階の5軒が軒を連ねていた。そこで、山の保存会と袋小路の地権者による任意の「百足屋町388建設組合」を設立して京都信用金庫が協力する「コーポラティブハウス方式」で会所と一体開発した。会所の奥は、鉄筋コンクリート4階、延べ約930平方メートルで、7軒が入居する。 披露の会では、保存会の黒竹節人理事長と建設組合の酒井英一組合長があいさつし、関係者に感謝した。
梅雨明けした青空の下、祇園祭の後祭(あとまつり)の山建て、鉾建てが京都市内で進んでいる。後祭のハイライトである24日の山鉾巡行に向け、町中に再び槌(つち)音が高く響いた。 南観音山(中京区新町通錦小路上ル)では早朝から、手伝方と呼ばれる職人12人が作業に追われた。くぎを使わず、部材に荒縄を巻いて木槌で締める伝統的な技法「縄がらみ」で手際よく組み上げていった。通行人が足を止めて見上げたり、観光客が熱心にカメラを向けたりしていた。 後祭で巡行する山鉾10基は21日までに立ち並ぶ。北観音山と南観音山、大船鉾は20日にそれぞれ「曳初(ひきぞ)め」を行う。巡行は24日。 気象庁は18日、近畿地方が平年より3日早く梅雨明けしたとみられると発表。京都地方気象台によると、1週間は最高気温が30度以上の日が続くという。
日本三大祭りの一つ、祇園祭の前祭(さきまつり)のハイライトとなる山鉾巡行が17日、下京区と中京区で繰り広げられた。色鮮やかな懸装品や、精緻な金工品や木彫で飾られ、「動く美術館」とも称される絢爛豪華な23基の山鉾が、祇園囃子を奏でて都大路を進んだ。 午前9時、囃子が始まり、音頭取りの「エンヤラヤー」の掛け声を合図に、先頭の長刀鉾が四条通烏丸東入ルを出発した。四条通麸屋町に差し掛かると、稚児の粂田龍志君が、四条通に張られた注連縄を太刀をきらめかせて一刀両断にした。 四条通堺町では、24年ぶりに山一番となった山伏山が巡行順を確認する「くじ改め」に臨み、白楽天山、孟宗山と続いた。交差点では「辻回し」があり、重さ10トン前後の鉾や曳山が進行方向を豪快に変え、見物客を喜ばせた。 四条通では、奉納囃子や渡り囃子と呼ばれるゆっくりとした囃子を響かせ、その後はテンポの速い戻り囃子を演奏して巡行。午後1時40分ごろ、最後尾が新町通御池を通過した。5年ぶりの日曜開催とあって、昨年より12万5千人多い19万人(京都府警調べ)が見物した。夕方には東山区の八坂神社で神幸祭があった。 祇園祭は八坂神社(東山区)の祭礼。主に神輿(みこし)による神事と山鉾行事で構成される。山鉾行事は国の重要無形民俗文化財。起源は南北朝時代までさかのぼるとされる。24日には後祭(あとまつり)の巡行があり、残る10基の山鉾が練る。
祇園祭の前祭は16日、宵山を迎え、約6万人(午後6時、京都府警調べ)が鉾町の賑わいを味わいました。交通規制もひかれ、車両はもちろん人の流れも一方通行など、歩きにくいです。烏丸通の一つ西室町通は北一方通行、新町通は南一方通行で蛸薬師通~四条通の間が最も混雑していました。南側綾小路通以南は意外と歩きやすかったと思います。前祭と後祭に分かれているので全部回るのも幾分楽になったでしょう。
祇園祭の前祭は15日、宵々山を迎えた。京都市中心部の四条通や烏丸通が「歩行者天国(歩行者用道路規制)」となり、多くの見物客が山や鉾が並ぶ都大路をそぞろ歩いた。 午後6時に歩行者天国が始まった。週末の宵々山とあり、浴衣姿の若者や仕事を終えた男女らが繰り出した。この日の最高気温は午後4時過ぎに27.4度を観測。平年より4度ほど低かったが、通りは人いきれでむっとしていた。 京都府警によると、午後11時の人出は昨年よりも1万人少ない23万人だった。
祇園祭の前祭の巡行で先頭を進む長刀鉾の稚児が、京都市東山区の八坂神社を参拝する「社参の儀」が13日に行われた。神事に臨むため、白馬にまたがって優雅に神社に向かう稚児、粂田龍志(くめだりゅうしん)君らの姿をひと目見ようと、雨にもかかわらず沿道から見物客が見守った。 社参の儀は「お位もらい」とも言われる。この日から「正五位少将」の位を得て、10万石の大名並みの格式を持つとされ、長刀鉾の町内では「神の使い」として扱われる。 午前10時ごろ、クジャクの羽で飾った「チョウトンボ」と金の烏帽子をかぶった粂田君が、地面に足をつけないように強力(ごうりき)に担がれて白馬に乗り、下京区四条通烏丸東入ルの長刀鉾町会所を出発。補佐役の禿(かむろ)で弟の宗政(ときまさ)君と、森英麿(ひでまろ)君に先導されて四条通を東に進み、40分ほどで神社に到着した。本殿に入ると、ご神木のスギの葉をくるんだ「杉守り」を授かった。 稚児は、前祭の山鉾巡行で太刀で注連縄(しめなわ)を切る。
祇園祭の前祭(さきまつり)の山鉾巡行を前に12日、京都市内の各鉾町では組み上がった鉾を動かす「曳初め」が行われた。誰でも参加できる機会とあり、女性や子どもらが一生懸命に綱を引いた。 この日は長刀鉾と、「鉾の辻(つじ)」と呼ばれる四条室町近辺の函谷(かんこ)、鶏、月、菊水の各鉾であり、小雨交じりの中、懸装品(けそうひん)に透明のカバーを掛けて臨んだ。 鶏鉾(下京区室町通四条下ル)では、地元の洛央小5年約90人や池坊短大の女子学生約160人らが綱を手にした。 音頭取りの「エンヤラヤー」の掛け声とともに参加者が綱を引くと、鉾がきしむ音を立てながらゆっくりと動きだした。 池坊短大1年中川愛海さんは「重そうな鉾が簡単に動くとは思わなかったが、みんなで綱を引いたので意外と軽く感じた」と話した。
祇園祭、前祭(さきまつり)の山鉾巡行を1週間後に控えた10日、京都市の四条烏丸周辺で、巨大な鉾を伝統技法で組み立てる「鉾建て」が始まり、ビルの谷間に槌(つち)音が響いた。 早朝から、長刀、函谷、月、鶏の各鉾の組み立てが始まった。作事方や建方(たてかた)などと呼ばれる大工たちが、蔵から路上に運び出した部材を、くぎを使わずに組み立てて、荒縄を巻いて固定する「縄がらみ」の技法で手際よく作業を進めた。大工たちが巻いた縄に木槌を打ち、周辺に槌音が響いた。見物客は、「チョウ」や「エビ」などと呼ばれる独特の形をした縄の模様を眺めていった。 長刀鉾では同日朝、「清祓(きよはら)いの儀」が行われ、八坂神社(東山区)の神職が、鉾の関係者や稚児が使う道具、建設中の鉾などをおはらいした。菊水鉾では、夕方に組み上がった櫓(やぐら)が届いた。 他の前祭の山鉾も、14日までに組み上げる。「曳初(ひきぞ)め」は、12日午後に五つの鉾、13日午後には三つの山鉾が実施する。蟷螂(とうろう)山は13日に「舁(かき)初め」を行う。後祭の山鉾は18日以降に建て始める。
祇園祭の綾傘鉾の稚児6人が7日、八坂神社で「社参の儀」を行い、祭りの無事を祈った。稚児は17日の山鉾巡行で綾傘鉾を先導する。男児6人は、それぞれの父親たちと「稚児結納の儀」に臨み、正式に綾傘鉾に迎え入れられた。 「社参の儀」では、保存会の役員と本殿で拝礼し、森壽雄宮司から綾傘鉾の稚児として認める「宣状」を一人ずつ受け取った。さらに本殿を3周する「お千度の儀」も行った。稚児たちは烏帽子(えぼし)に狩衣(かりぎぬ)姿で額に汗を流しながら境内を歩いた。
祇園祭の長刀鉾は5日、町会所で神事始めの儀式「吉符入り」を行った。稚児の粂田龍志)君5が、17日の山鉾巡行の際、鉾の上で行う「太平の舞」を市民に披露した。 午後3時、町会所の祭壇前に保存会の役員や囃子(はやし)方が集まり、祭りの無事を祈った。粂田君は、祭りに奉仕することを誓う「吉符」を神前に奉納。禿の弟・宗政(ときまさ)君、森英麿(ひでまろ)君とともに役員に太平の舞を見せた。役員の了承を得ると、3人は町会所2階の窓際に並んだ。 粂田君はクジャクの羽が付いた冠をかぶり、紫色の振り袖に若草色の裃(かみしも)を身に着けて臨んだ。ゆったりとした祇園囃子に合わせ、窓から大きく身を乗り出して舞った。 会所の前には多くの観衆が集まり、優雅な舞を楽しんだ。粂田君は「とても緊張したが、うまくできた。きょうよりも舞をうまくして本番に臨みたい」と話した。
祇園祭の前祭(さきまつり)の山鉾巡行でしんがりを務める船鉾(京都市下京区新町通綾小路下ル)は3日、ご神体人形に取り付ける新旧の面の無事を確かめる「神面改め」の儀式を行った。 神面は、神功(じんぐう)皇后の人形にかかわる面。町内に2面が伝わり、室町時代中期に作られた本面と、江戸時代の写し面がある。巡行では、写し面を人形に付け、本面は保存会の役員が持って鉾に上がる。 午前10時に祇園祭船鉾保存会が神事入りの儀式「吉符(きっぷ)入り」を行い、理事長の古川雅雄さんが本面を、町内会副会長の高鳥広保さんが写し面を慎重に木箱から取り出し、息が掛からないように口に懐紙をくわえ、無言で約40秒掲げた。面に変わりがないことを確認すると、再び木箱に収めた。神事を終えた古川さんは「先輩方が神事を守ってきた偉大さをつくづく感じました」と話した。
祇園祭の山鉾巡行の順番を決める「くじ取り式」が2日、京都市中京区の市役所市会議場で行われ、17日に行われる前祭(さきまつり)巡行で先頭の長刀鉾に続く「山一番」は山伏山(やまぶしやま)が24年ぶりに引き当てた。24日の後祭巡行は、浄妙山(じょうみょうやま)が山一番を取った。
【前祭 山鉾巡行】(7/17)
1 長刀鉾2 山伏山(山一番)3 白楽天山4 孟宗山5 函谷鉾6 太子山7 四条傘鉾8 占出山9 月鉾10 芦刈山11 蟷螂山12 保昌山13 鶏鉾14 伯牙山15 綾傘鉾16 霰天神山
17 菊水鉾18 木賊山19 郭巨山20 油天神山21 放下鉾22 岩戸山23 船鉾
【後祭 山鉾巡行】(7/24)1 橋弁慶山2 北観音山3 浄妙山(山一番)4 役行者山5 黒主山6 南観音山7 鈴鹿山8 八幡山9 鯉山10 大船鉾 ※太字は順固定か隔順
2016.07.01 祇園祭スタート長刀鉾の稚児、梅雨空のお千度の儀
日本三大祭りの一つ、祇園祭が1日幕開けした。京都市東山区の八坂神社では、梅雨空の合間から時折日が差す中、前祭(さきまつり)の巡行(17日)で23基の山鉾の先頭を進む長刀鉾の稚児が「お千度の儀」に臨み、神前で祭りの無事を祈った。 午前9時50分、おしろいの化粧を施し、「涼み衣装」を身に付けた今年の稚児粂田龍志(くめだりゅうしん)君が、稚児を補佐する禿(かむろ)の弟宗政(ときまさ)君、森英麿(ひでまろ)君とともに修復中の南楼門から本殿に入った。長刀鉾保存会の役員や稚児係らとともに、神前に稚児を務めることを報告した後、朱色の傘を差されて本殿を時計回りに3周した。 同日は午前から、各山鉾町で神事入りの儀式「吉符入り」が行われた。中京区と下京区では夜になると、函谷(かんこ)鉾や放下鉾などで「二階囃子(ばやし)」が始まり、「コンコンチキチン」の祇園囃子を響かせる。祇園祭は八坂神社の祭礼で、31日までの1カ月間、さまざまな神事や行事が繰り広げられる。
2016.06.30 伯牙山がお守り授与 7月14日から個数限定
祇園祭・前祭(さきまつり)の伯牙(はくが)山(京都市下京区綾小路新町西入ル)が、山に立てるご神木の松を利用したお守りを授与する。個数限定で7月14日午後~16日まで。 山の保存会は3年前から、7月17日の山鉾巡行が終わって山を解体した後、ご神木を輪切りにしてその翌年の宵山期間中にに授与してきた。 輪切りにしただけのシンプルなお守り。大きさは直径3センチや同8センチなどさまざまだが、保存会は「ご神木は神職によるおはらいを受けている。大きさが異なっても御利益は一緒です」と話している。100円。
祇園祭の長刀鉾保存会(京都市下京区四条通烏丸東入ル)は、今年で生誕300年となる江戸時代の奇想の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)筆「旭日鳳凰(きょくじつほうおう)図」を用いた見送(みおくり)を新調し、23日に関係者に披露した。若冲の鮮やかな色彩と細密な描写の絵画を、綴織(つづれおり)に仕上げた。 見送は、鉾の背面を飾る装飾品。新調したのは、縦3.5メートル、横1.8メートル。黄金色の雲海から日が昇る様子や雌雄の鳳凰などが描かれた作品を、絹糸と本金糸の約360色の染糸を混ぜて織り込んだ約800色で表現した。 若冲は、長刀鉾の町内に近い錦小路通高倉の青物問屋の当主だった。保存会は、今年の法人化50年と、"ご近所さん"だった若冲の生誕300年に合わせて、吉事が起こる前兆とされる瑞鳥(ずいちょう)、鳳凰の図柄を用いた見送の新調を決めた。 「旭日鳳凰図」は、若冲が画業に専念した1755(宝暦5)年の記念すべき作品。現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する。保存会が2013年に許可を得た後、制作を依頼した川島織物セルコン(左京区)が3年かけて仕上げた。今年の前祭(さきまつり)の山鉾巡行(7月17日)で使用する。西村利男代表理事は「平成の新調幕にふさわしい図柄。巡行では、お稚児さんとともに、背面の見送が映えると思います」と話した。
祇園祭の四条町大船鉾保存会(京都市下京区新町通四条下ル)が、木彫の巨大な龍頭(りゅうとう)を制作し、18日にお披露目した。元の龍頭は、1864(元治元)年に発生した禁門の変の大火で焼失しており、150年余りの時を経て鉾の船首を飾る龍頭が姿を見せた。今年の後祭(あとまつり)の巡行(7月24日)では、鋭い眼光の龍が都大路ににらみをきかせる。 新調した龍頭は、高さ約2メートル、重さ約220キロ。主にヒノキ材を用いた寄せ木造り。口を閉じ、船首をわしづかみにするような鋭い爪を表現。目は黄金色をしている。 大船鉾の四条町は、かつては南北の二組に分かれ、1年交代で鉾を出した。南四条町が当番の年は大金幣(きんぺい)を、北四条町の年は龍頭を使った。1813(文化10)年作の大金幣は現存し、150年ぶりに鉾が再建された2014年、翌15年の巡行で使用した。龍頭は、橋弁慶町文書に、禁門の変の大火で焼失したと書かれている。 保存会は、従来の鉾の姿に戻そうと龍頭の制作を決定。江戸時代の龍頭は、四条町の記録から呉春(松村月渓)の下絵を用いて作ったとされるが、下絵も失われている。しかし、研究者から、かつての龍頭は、当時活躍した九山新之丞(くやましんのじょう)、新太郎親子の作ではないかとの意見が上がり、東山区の瀧尾(たきのお)神社拝殿にある新太郎作の木彫の龍を参考に、2年がかりで新調した。 神社は大丸を創業した下村家の寄進で再建されている。大丸はかつての寄町(よりちょう)にあることを縁に、龍頭のことを知った神社の佐々貴信美宮司が保存会に寄進を申し出た。 保存会の林邦彦理事長は「復興と呼ぶにはまだ途上にあるが、着実に往時の姿に近づいている。うれしいことです」と喜んだ。制作に当たったのは米原市の彫刻師森哲荘さん、長男靖一郎さん、次男徹雄さんの親子。制作を縁に、九山家の子孫の了解を得て、哲荘さんが九山新之丞を襲名することになった。
祇園祭の菊水鉾保存会(京都市中京区)が布袋をテーマにした新しい後掛を製作した。同保存会は前掛や胴掛(2面)を含む全4面の懸装品(けそうひん)を七福神をモチーフに4年がかりで新調。後掛の完成ですべてがそろい、注目を集めそうだ。 後掛は、縦2.57メートル、横2.63メートルの綴織(つづれおり)。涼やかな水色で表現した波の上を、布袋が乗る大きな袋を唐子(からこ)が鉾を曳(ひ)くように動かす様子が描かれている。 1953年に再建され、「昭和の鉾」と言われる。保存会は、2013年の鉾再建60年を記念し、傷んできた懸装品の新調を決定。古くは「夷山(えびすやま)」を出した経緯から七福神にちなんだ図柄を選び、江戸前期の絵師狩野岑信(みねのぶ)筆「七福神図巻」(板橋区立美術館所蔵)を参考に、本金糸をふんだんに使った懸装品に仕上げた。製作は川島織物セルコン。費用は4面計約8千万円。 猪田浩市理事長(69)は「昭和の鉾に平成の懸装品を掛けることができた」と喜んだ。7月12日の曳初(ぞ)めから、宵山期間、前祭(さきまつり)の山鉾巡行を通して鉾を飾る。
祇園祭の長刀鉾の稚児、粂田龍志(くめだりゅうしん)君(11)を、鉾の町内に迎える儀式「結納の儀」が11日、龍志君の京都市北区の自宅で行われた。長刀鉾保存会の役員を前に、稚児と禿(かむろ)の親が大役を引き受ける決意を告げた。 この日は八坂神社(東山区)の神職が家を清め、祭壇が設けられた床の間に「祇園牛頭(ごず)天皇」の軸が掛けられた。 神饌(しんせん)を供えた後、紋付き羽織はかま姿の稚児と禿の父粂田晃稔(あきとし)さん(43)、もう一人の禿の父森栄彰(ひであき)さん(42)が、保存会役員と向き合った。床の間の前で、保存会の西村利男代表理事(66)が「このたびは名誉と伝統ある長刀鉾の御稚様のご大役をお引き受けいただき、ありがたく、おめでとうございます。幾久しくよろしくお願い申し上げます」と結納の品を差し出した。粂田さんは「由緒正しく、格式高い稚児の大役を務められるよう精進いたします」と返礼した。
祇園祭山鉾連合会(事務局・京都市中京区)は、190年前から「休み山」となっている鷹(たか)山の復興に向けた調査委員会を設置し、7日に第1回会合を開催した。2年かけて歴史文献や絵画資料、残されたご神体人形などを検証し、どの時代の、どのような形態の山を復元、製作するかを検討する。連合会が鷹山復興を正式に議論するのは初めてで、検討結果を基に復興が具体化される。 委員会は文化庁の補助金を受け開催。連合会の役員と専門家計9人で構成する。 この日の検討会で岸本吉博連合会理事長(67)は「鷹山の骨格を作りたい。山鉾行事の任に堪えうる山となるよう進める」と話した。 鷹山保存会は4月、山鉾連合会に準加盟した。過去に四つの山鉾の復興に関わった植木行宣会長(84)は「連合会に加盟するということは、国の重要無形民俗文化財とユネスコの無形文化遺産の枠に入るということ。それにふさわしく、品格のあるものにするため議論したい」と話した。出席した鷹山保存会の山田純司理事長(61)は「私たちの世代が復興の最後のチャンスという認識だ」と意気込んだ。 鷹山は、中京区三条通室町西入ルの町内にあった後祭(あとまつり)の曳山(ひきやま)だった。1826(文政9)年の大雨で懸装品が被害に遭い、その翌年から山鉾巡行に参加していない。2014年、囃子(はやし)が復活し、15年に新たに保存会を発足させた。26年までの山の復興を目指している。
祇園祭の前祭(さきまつり)の山鉾巡行(7月17日)で、先頭の長刀鉾に乗る稚児と禿(かむろ)が決まり、長刀鉾保存会(京都市下京区)が4日、発表した。 稚児は、柊野小5年粂田龍志(くめだりゅうしん)君(10)=北区。稚児に決まったときは「びっくりしたけど、うれしかった」と振り返り、「稚児として頑張ります。(巡行では)注連縄(しめなわ)切りの演技を間違えないようにしたいです」と抱負を話した。 稚児を補佐する禿は、龍志君の弟の同小4年宗政(ときまさ)君(9)と、正親小2年森英麿(ひでまろ)君(7)=上京区。宗政君は、「稚児のサポートを頑張りたい」と兄を支える決意を話し、英麿君も「みんなで一緒に頑張りたい」と3人で大役を務める意気込みを語った。 龍志君と宗政君は、ヤサカ観光バス社長粂田晃稔(あきとし)さん(43)の長男と次男、英麿君は西陣織・ひな人形製造販売「もりさん」社長森栄彰(ひであき)さん(42)の長男。稚児と禿を兄弟で務めるのは4年ぶり。粂田さんと森さんは、父親同士が中学以来の旧知で、家族ぐるみのつきあいがあるという。 稚児と禿は、伝統行事のお千度の儀(7月1日)や社参の儀(13日)などを経て、巡行に臨む。
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